ロシア革命の幻想と「68年革命」論の虚妄by高杉公望)

――さらぎ徳二編著『革命ロシアの挫折と崩壊の根因を問う』(築地電子活版、2002年)と

スガ秀美氏による書評をめぐって――

 

 先日、4月13日に亡くなったさらぎ徳二・元第二次ブント第三代議長への追悼になるかどうかわからないが、彼の遺作となった論文集『革命ロシアの挫折と崩壊の根因を問う』についての批判的な見地からの論評を掲載しておくこととする。(200351日)

 

 さらぎ徳二氏にこの論集執筆の依頼を受けることになったのは、『情況』第三期の大下敦史編集長に誘われてさらぎ氏の出版記念パーティに顔を出したのがきっかけであった。わたしはブント(共産主義者同盟)という戦後史、戦後思想史に鮮烈な光芒を放ちながら公式の正史からは隠蔽されている存在にたいして後世人としての興味がある。それはイデオロギー的な共感とはまったくちがう問題である。

 第二次ブント第三代議長であったさらぎ氏は、第二次ブントの「三ブロック階級闘争論」−−着想どまりだったが世界システム論の先駆をなしていた−−の形成にどのようにかかわったのであろうか、というのが知りたいところであった。その後、文通でさらぎ氏自身が党内論争、党派間論争の中から「三ブロック階級闘争論」を形成していった経緯についての説明や文書資料を提供していただいたりしたのであった*1

 ちょうどその頃、この論集の執筆依頼をうけた。そのとき聞いた論集のテーマを、そのまま拙稿「資本主義はなぜ強靱であったか。社会主義はなぜ無効になったか。」のタイトルに使った。むろん、「三ブロック階級闘争論」に萌芽的にふくまれていた世界システム論的な着想をのぞくと見解を異にすることは相互に了解済みのことであった。どんな内容でもよいかということは最初に念を押して、それでもよいということなので執筆の依頼を受けることにしたのであった。とはいえ、社会主義社会の物質的基盤となるべき計画経済の基本的可能性を疑うがゆえに社会主義の理想そのものが裏切られる必然性を指摘したハイエク的な経済思想をふまえた論理展開をした拙稿をあえて掲載されたさらぎ氏には、開放的なブント的革命精神を感ぜざるをえなかったのである。

 なお、いうまでもないことだが、計画経済の不可能性を徹底的に解明したハイエクの業績は無視できないものだが、そのことはただちにすべての政治思想においてハイエクのような新自由主義に与すればよいということでないことはいうまでもない。それは、マルクスがアダム・スミスやリカードと学問的に徹底的に対決したことと、かれらの経済的自由主義にたいして批判的に対峙したこととが矛盾しないのと同様であろう。

 もっとも総題が『革命ロシアの挫折と崩壊の根因を問う』となったことは論集の完成後に知った。わたしは世代的にごく普通のことだが(62年生)、生まれてこの方、ロシア・マルクス主義にはまったく否定の感情しか抱いていないのでこの総題には多少面喰らった。わたしらの世代であれば、はじめから以下の諸事実を突きつけられてもなんらの心理的な拒絶反応なしに受け入れられるものとなっていたことは明記しておかねばならない。

 たとえばソ連邦の消滅以降、公開されてきた秘密資料から明らかとなってきたところでは、1921年6月12日、レーニンは毒ガス使用によるタンボフ農民の絶滅命令を下したという(ヴォルコゴーノフ『レーニンの秘密』下、NHK出版、1995年、p.135)。周知のごとく、毒ガス兵器は第一次大戦中にイペリット(マスタード・ガス)、ホスゲンなどが開発、濫用されていたのであるが、レーニンが使用命令を発したのは、まさに”心弱き”ブルジョア・帝国主義者たちが国際連盟その他の国際会議において毒ガス禁止条約を議題にのせている最中のことであった。

 また、ごく控えめな推計によっても、スターリン時代の約30年間に強制労働収容所の死者150万、流刑による犠牲者150万、粛清80万、農業集団化などのもたらした飢饉による餓死者650万におよぶという。これに対してレーニン指導の5年間の処刑者数は特別法廷をへた死刑数だけでも一万をはるかに超えるが、実際には裁判なしの処刑が多く数十万(未確定)に達すると推計される。さらに、レーニン時代の餓死者は五百万におよぶという*2

 以上を合計するとロシアの人口規模一億数千万人の一割をゆうにこえる比率が犠牲となったことになる。今日、北朝鮮の餓死や粛清による犠牲者数は累計で約三百万人とみられているが、北朝鮮の人口規模千数百万人からかんがえると金日成・金正日体制による犠牲者数の比率はレーニン・スターリン体制による犠牲者数の比率とほぼ並行的といえる。これは、北朝鮮の党・国家体制がソ連軍・工作機関によってレーニン・スターリン体制を忠実に移植されたものであったことをうかがわせる数字であると思われる。

 ロシアにおける餓死者もいれた年間平均の犠牲者数はレーニン時代は百万人以上、スターリン時代は34万人でレーニン時代のほうが圧倒的に多い。これはあくまで内戦の犠牲者七百万人をのぞいた数である。この内戦の犠牲者数と独ソ戦の犠牲者数二千万人を考慮にいれると、年間平均はレーニン時代二、三百万人、スターリン時代百万人となってさらにレーニン時代の残虐行為、もとい小心なるプチブル的良心に対置された断固たる鉄槌が際立ったものとなる。ここから単純に考えれば、「反スターリン主義」のほうが「スターリン主義」よりも殺戮にたいしてはるかに無頓着な傾向もうなずけるものとなる。

 ちなみに、かの凶悪なる日帝の神聖天皇制は病気がちの野呂栄太郎、小林多喜二を二月酷寒期に拷問で傷害致死に至らしめはしたが、一人の共産党員も死刑に処してはいなかった。また、残虐きわまりなきツァーリ・ロシアの流刑地では共産主義者たちは執筆することも亡命することも可能だった。これに対して、トロツキーはメキシコに潜伏していてさえ、ついにスターリンの刺客の手を逃れることはできなかったのであった。

 ナチスによるユダヤ人ホロコーストは約六百万人、ドイツ人戦争犠牲者数も約六百万人(独ソ戦のソ連側犠牲者数は約二千万人)、日本人戦争犠牲者数も約六百万人(日帝アジア侵略による犠牲者数は約二千万人)といわれる。レーニンとスターリンによる自国民の累計犠牲者数が約四千万人にもおよぶのをみるとき、その恐怖政治がどれほど戦死者、餓死者がでても意に介さない徹底した全体主義体制であったかということを、これらの数字ほど如実に示しているものはない。しかも、これらの数字は南京大虐殺をめぐって約4万人から約30万人まで大きく異なる推計があるのと同じでさまざまにある推計値のうち、あくまで控えめなものによっているのである。

 

 かつての左翼や進歩的知識人の想像をはるかに超絶していたレーニンのつくりだした逆ユートピアとは、いったい何に由来するかのか? ロシア・マルクス主義を問うことは、本来それを問うことでなければならないはずである。

 この論集に掲載されているさらぎ論文と生田あい論文はレーニンから疑え、ということをモチーフとしているようである。また、望月彰論文はマルクスを疑いプルードンに戻れというモチーフのようである。これらに対して岩田弘論文、いいだもも書簡はこの論集に掲載されている限りではそういうことを論点としているわけではないが、岩田氏は共同体主義を考えておられるようである。わたし自身は、十九世紀的な空想的社会主義、アナキズム、プルードン的な協同組合主義、あるいはなんらかの共同体主義にたいしては、20世紀の世界史的体験をへた今日、人間存在の深さにも社会における諸関係の複雑性や権力の問題にもあまりに無知であるとしか思えない。ハンナ・アレントの政治哲学やコミュニタリアニズムからも学ぶ必要があると思っている所以である。また、府川論文は末尾でベルンシュタインの名前をほのめかしているが、論文の目的からしてその点ははっきりしているとはいえない。

 この論集でさらぎ氏はレーニンのどこが間違っていたのかを問うている。1921年の第十回党大会で「分派の禁止」と「ネップへの退却」が決定されたのだが、

 

  「この二点は党主体の変質を招いた点でターニングポイントだ私は考える。何故ならネップはクロンシュタット水兵達と労働者の要求を越えた農民への妥協であり商品経済と中小経営の賃労働雇用=搾取の容認だからであり、労働者農民兵士の自由なソヴィエトの復活ではなく、全管理権を中央官僚機構のスターリンが牛耳る労農人民監督部の手にゆだね、分派禁止は労働者反対派や民主主義的中央集権派の即自解体を命令し、決定違反者を除名する決定を強行したからである。レーニンが提起した決定が緊急避難的に不可欠な一時的な処置と政策であったとしても、分派禁止の解除とネップ終焉の条件と時期が確定できなければ、スターリンによって反対派追放とクロンシュタット弾圧の常態化が定着するからである。」(p.33-34

 

 つまり、三月のクロンシュタット弾圧、分派禁止令以降、不可逆的にスターリン主義的な体制へと転落していったというわけである。それはようするに、

 

 「ウクライナ全域をドイツに売り渡してもソヴィエト政権を守ろうとするボルシェビキと、対独パルチザン戦を全農村で展開しても領土を売り渡さないという左翼エス・エルとのブレスト・リトウスク講和を巡る対立に、ソヴィエト解体の政治的原因を見て来た。

 そして、左翼エス・エルに対するボルシェヴィキの砲撃が、左翼エス・エルの弾圧、メンシェビキ、アナキストのソヴィエトの離反を招き、ボルシェビキ独裁を確立した。更に、レーニンとトロツキイのクロンシュタットに対する武力弾圧がすでにスターリン独裁体制を生みだすこと突き止めた。」(p.37

 

というものである。

 すなわち、さらぎ氏はレーニン、トロツキーが左翼エスエルの基盤やそれにもとづく戦略的な洞察力を肯定的に理解できなかったために、かれらとブレスト・リトウスク講和問題で決裂したことが、その後のソヴィエト解体、クロンシュタット叛乱の武力弾圧、分派禁止への坂道を転げ落ちるきっかけとなったとみているわけである。しかし、もし左翼エスエルの主張どおりブレスト・リトウスク講和に応じなければ、ドイツ軍がロシアに侵攻してきたのではないのか? さらぎ氏によると、それこそが左翼エスエルの思う壺だったということになる。

 

 「彼等[左翼エス・エル]は、また、広大なロシアの大地にドイツ軍をひき込んで農民パルチザン戦争を展開持続する確信があったのである。それはナポレオン軍をロシアの奥深く誘い込んで冬将軍を味方として勝利した伝統的な思考方法に基づく発想であった。」(p.25

 

 たしかに、それからおよそ25年後、ヒトラー・ドイツ軍の侵攻をスターリン・ソ連が撃退したことからしても戦略論としてはひとつの考え方であろう。だが他方で、さらぎ氏は左翼エスエルについて、「資本主義の発展を認めず、プロレタリアに依拠しない彼等は、所詮、政権を担える党ではなかった」(p.25)ともいい、あくまでもボルシェビキが左翼エスエルの支持基盤たるロシア農民を取り込まなければならなかったという立て方をしている。

 いいかえると、あくまでもボルシェビキ主導のもとで左翼エスエルと連携しながらドイツ軍をロシアの大地に引き込んで冬将軍によって殲滅することをもって、世界革命戦争へとつなげてゆくようなイメージを抱いているということかと思われる。このように、さらぎ氏はあくまでもオールド・ボルシェビキの立場に立つことによって、当時のボルシェビキの限界、誤謬をあたかも自己批判的に追及しているかのようである。

 だがしかし、ロシア本土でのパルチザン戦の結果もたらされる凄惨な事態は、ロシア人民に異常な犠牲を強要する戦時共産主義であることにかわりはないであろう。したがって、過酷な犠牲を民衆に強いる戦争指導の最中に、それぞれ支持基盤も指導者の個性も認識・判断能力もことなる左翼エス・エルやメンシェビキとボルシェビキが連立を維持しつづけられる保障はありそうもない。

 場合によっては、ボルシェビキのほうが左翼エスエルに政権から叩き出される事態も起こっていたかもしれない。というのは、発足以来つねに少数派である「ボルシェビキ」は連立政権において、もし左翼エスエルの戦略方針に依拠することになれば、ただちに政権のイニシアティブをとられて傍流に転落せざるをえなくなっただろうからである。ボルシェビキは支持基盤を即時停戦論によって獲得してきたのであり、ブレスト・リトウスク講和問題で左翼エスエルに譲歩することはどうしてもできなかったにちがいない。左翼エスエルに同調することは、政権内部でのイニシアティブを失うと同時に、大衆的な支持基盤を喪失することを意味するからである。

 ロシア二月革命後の不安定な政治情勢に乗じて、慎重派の反対を押し切って十月に無理矢理クーデタによって政権奪取をおこなったボルシェビキにとって、多様な選択肢ははじめから削ぎ落とされていたといわざるをえない。必然的にそれは途中で崩壊するか、それとも強権発動につぐ強権発動によってスターリン=レーニン主義体制へと突き進んでいくか、ということを運命づけられていたのであった。

 さらぎ氏は、マルクスは1881年に「ザスーリッチへの手紙」でロシアのミール共同体を基盤とした革命の可能性を示唆するに至っていたのに、レーニンやボルシェビキはそのことを知らなかったし、その結果、ミールについて無理解のままだったことが、ザスーリッチらナロードニキの系譜をひく左翼エスエルとの連携をも不可能とした、というように考えておられるようである(この論集のさらぎ論文「ミールの無理解がレーニン誤謬の源」)。

 そこまで歴史のifを考えるならば、ボルシェビキが分解して左翼エスエルとメンシェビキが主導するかたちで労農ソヴィエト政権が樹立されていたならばどうなっていただろうかと考えるほうが、まだしも可能性があるのではないだろうか。そうなれば、労農・社会民主主義主導の「ヨーロッパ共通の家」といったものが、今日みられるものよりもう少し人民寄り、左寄りのかたちで一世紀ちかく早く実現でき、ヒトラー政権も出る幕はなく、五、六千万人が犠牲となった第二次大戦もおこらずにすんだかもしれない、というようにも考えられないであろうか。

 

 ところで、スガ秀美氏はこの論集への書評のなかで「革命ロシアの挫折と崩壊の原因を問う」という設問の仕方自体にあまり興味がわかないといっている(『情況』200212月号、pp.220-222)。じつは、スガ氏のいう「68年」についてさえ即自的にはほとんど興味をおぼえないわたしのような世代のものにとってみれば、それはなおさらなのである。世代的にいってなぜこのようにロシア革命が物神化されて、その挫折の意味を問わなければならないのかは、即自的にはわからない。しかし、即自的にわからないことは、それゆえに関心の対象に転化するのである。それはたとえば、なぜ吉本隆明氏や故・橋川文三のような戦中派の世代が天皇制の共同幻想力や戦時中の日本浪漫派の批判的解体に全精力を傾けてきたのか、即自的にはわからないというのとパラレルである。わからないがゆえに好奇心をそそられるようになる、という意味でわたしは共同幻想論のモチーフの背後にあるものを思想史的に辿ってみることにも興味を抱いてきた。それと同程度にということはできないが、マルクス・レーニン主義に執着する世代がロシア革命を物神化することも、一個の歴史性として関心の対象となりうるのである。また、同様にして「68年革命」といわれるところの60年代末期の特異な社会現象にも、契機があればいくばくかの興味関心が湧いてくることになる。その点、わたしは「歴史好き」なのであろう。

 この論集のなかでスガ氏が唯一興味をひかれたという府川光男氏の論文は、実際、きわめて興味深い証言である。それによってわたしも「68年革命」ともいわれる社会現象についての関心がより強まった。しかし、スガ氏はその府川論文の末尾、かならずしも著者の意想が十全に展開されているとはいえない箇所から、同世代体験ゆえ皆まで云うな、云わずもわかるといった具合に次のように論を展開される。

 

 「府川氏も記すように、六○年代末期においてニューレフト的観念論からの脱出のための導きの糸は皆無に近かった。府川氏はその導きの糸を廣松渉に求める。『我々にとって廣松渉の著作は六○年代の彼此[アレコレ]への強力な解毒剤であった』と。府川氏は詳述していないが、これは、その疎外革命論批判を実践的に読むことによって可能になることである。これはブントの指導的イデオローグであった廣松渉にさえ逆らって廣松を読むことで可能な、実践的=唯物論的なレクチュールにほかならないが(周知のように、廣松理論は、その実践性を疑われていた)、それこそが廣松をして『六八年の思想』とすることの唯一の可能性なのである。」

 「もちろん、廣松自身にしても、自分の思想的意義を理解していたか否かは、疑わしかったのだ。そのようななかで、府川氏のように廣松を読んでいた若いアクティヴィストがいたということは、日本の六八年革命の水準が、捨てたものではないことをあかしている。もちろん、それは私自身の多少の自負も含んでいる。」

 

 この点については、十年以上歳下のわたしの世代には不可解なところがある。60年代ともその余韻ののこる70年代とも、田中康夫『なんとなく、クリスタル』(1980年)によって革命的切断をうけた以降の80年代に学生となったものにとっては、故・廣松渉のいっていることは、スガ氏の言葉でいうと「ニューレフト的観念論」の最後のあがきとしかみえなかったからである。そこで、以前、わたしは次のように書いたことがある。

 

 「1969年の挫折以降、この三つの要素[疎外論のもつ希望的ビジョン、その過去への投影、共同体的全体主義]をすべて揃えた疎外革命論が、宿酔いでみたくもないといった扱いを受けることとなったことにも必然性はあったのだろう。ところが、そこで対置された故・廣松渉の物象化論というのは特異な論理構成をもっていて、一つめとふたつめを否定しながら、三つめの全体主義的共同体主義はそのまま保存していた。だが、一般的にはその部分は無視されてユートピア観念を回復されるべき「本来あるべきもの」と思い描くことへの批判のみが疎外論批判として歓迎されたのであった。それはあきらかに廣松自身の意図から完全に逸脱していたが、その当時の時代の感性が求める必然性をもって好き勝手に誤読されたのであった。この方向性を強調したいのならば、柄谷行人氏のように『ドイツ・イデオロギー』の「交通」概念によって、マルクスの空間的移動というノマディズムをもって、故郷喪失にたいするノスタルジーとしての共同体的全体主義に対置するという読み方のほうが自然であった。廣松の疎外論批判と『ドイツ・イデオロギー』編集作業のもったインパクトは、柄谷氏のそうした読みを誘発した特殊な時代的雰囲気をぬきには理解できないものがあろう。」(『情況』200211月号、ただし執筆は1月)

 

 したがって、この文章が載った『情況』の翌12月号に掲載されたスガ氏の書評における廣松体験についての吐露は、わたしには意外性のないものではあった。しかし、革命の空騒ぎのあとの宿酔いのなかで迎え酒扱いにされた廣松渉はいい面の皮であったろう。日本の知的社会風土においては、悟性的論理にもとづいた思想的討議の積み重ね−−それこそが対話法=弁証法的理性の論理に弁証法的に転化する−−というものがいまだに不可能であるが、そこでは時代情況の転変に対応するためには、文学的というか恣意的な感覚的、直感的な跳躍だけが頼りとならざるをえない。なんで「転向」したのかを論理的に説得できないので、「転向」したほうは曖昧なあうんの呼吸がつうじそうになければ誤魔化しや隠蔽、あるいは開き直りに終始するしかなく、ぎゃくに「非転向」の立場で批判するほうは硬直的な倫理主義への居直りいがいのなにものでもない。

 しかも、本人は大真面目に教条的なマルクス・レーニン主義の復活をのぞんでいた廣松渉のマルクス文献解釈論がスカ氏らの若い読者に恣意的に読まれれば読まれるほど、生真面目な研究者は文献解釈論の説得力が足りないのかと思ってますます文献解釈論を精緻化してゆくという底なし沼にはまりこんでゆく。

 つまり、日本では転換期に対応するための知的努力のパターンは、一方における文学的というか恣意的な感覚的跳び越えと、他方における文献解釈学のスコラ的な精緻化への埋没であって、どこにも新しい事態にたいして創造的でロジカルでラジカルな思想的展開というものはあらわれない。それだけの知的基盤がまだないからである。ポスト・モダンやポスト構造主義が流行してくる段になったらなったで、フランスのいかなる政治思想的文脈でそういうものが出てきたかなどいっさいおかまいなしに、文学的というか恣意的な感覚的、直感的な「読み」で表層的に流れてゆく。

 スガ氏は(決してフランス発祥ではなくアメリカ由来の)「今日の知見をまじえて」次のようにいっている。鉄の必然であるはずの革命を「裏切った」のがスターリンだというならば、逆説的にスターリンは神のごとき存在だということになる。スターリンにとってかわってもう一度「裏切り」を反転させればもっとうまくやれると新左翼はかんがえたが、それはみずから神のごときスターリンの模像となろうとすることでしかなかった、と。しかし、この言い方はあまりにも警句的にすぎ、そんなことは今更いわれるまでもないという者にしか通じそうにはない。わたしは、スガ氏も参考にしたらしい「今日の知見」について、できるだけ散文的に書くことを、「資本主義はなぜ強靱であったか。社会主義はなぜ無効になったか。」で試みたというにすぎない。

 ちなみに、既成左翼はなぜか謀略論が好きであるが、この奇怪事の理由は二つある。その一つは、197080年代以降はスターリン=レーニン主義党派・国家しかやったことがないような水準のゲバルト、テロル、拉致等々の人命軽視の残虐性を米国や西欧や日本の国家権力がいまだ自分たちと共有しているというように自己の模像を投影してみていることである。そして、もう一つの理由が、既成左翼はいまだに計画経済の不可能性を理解していないことにある。計画経済が可能だと思っているから、本来、アメリカや日本の国家権力は計画経済が可能なはずにもかかわらず、ブルジョアジーの利害のためにそれをしないだけであり、他方、国内管理強化や世界支配のためには容赦なくその偉大なる謀略遂行能力を駆使しているのだというように考える、あるいは感じているのである。つまり、自分たちが政治権力を奪取した暁には存分にプロレタリア独裁のもと行使しうる計画経済能力と呵責なき赤色テロルの能力にたいする自己確信を、現在の米・日・欧の国家権力に無邪気に投影しているというわけである。

 閑話休題−−。ポスト・モダンやポスト構造主義といったフランスの「現代思想」などは翻訳が揃ってきてみれば現代性のほとんどないものだったが、それでも彼らのマルクス主義をめぐる愚直な思想的苦闘のあり様は翻訳をとおしても歴然とわかるものであった。他方、アメリカでは主としてニューヨークのユダヤ系知識人たちが、1930年代の若き日の社会主義体験にたいして、その後、実証的な社会学や政治思想、経済思想の膨大な研究の積み重ねによってきびしい政治情況のなかで緊張関係をはらみながら「転向」を総括していった。その莫大な言葉の蓄積がそのまま20世紀中葉水準の社会科学の現代性の基盤をなす著作群となっていったのであった(矢沢修次郎『アメリカ知識人の思想―ニューヨーク社会学者の群像』 東京大学出版会、1996年、などを参照)。

 スガ氏によるこの論集への書評は、日本の知的社会風土においては21世紀になってもいまだそうしたことが困難なことを示す興味深い徴候的資料ともなろう。

 

 1968年前後の時代体験について府川論文は、いままでなかったような位置における体験を詳細に綴ったまちがいなく一級の第一次史料である。しかし、それをたとえばスガ氏のように「68年革命」という図式にあてはめるのは、わたしのような後世人の目からみると無理があるように思われる。以下に、「68年革命」について、まず世界史的文脈において、ついで日本史的文脈において概略的に考えてみたい。

 ウォーラーステインは、「68年革命」によってコロンブス以来五百年におよぶ近代世界システムの終わりの始まりがはじまったという。たしかに、アメリカとソ連は対立しながらもパクス・アメリカーナという世界支配体制を構築していたが、「68年革命」以降、70年代をつうじてアメリカのヘゲモニーが弱体化していった、というところまでは言葉の綾として理解できるものである。もっとも、アメリカのヘゲモニーの弱体化は、日・欧の経済復興によって1958年に端緒がみられ、60年代をつうじて繰り返し黄信号がともり、ついに「71年ドル・ショック」にいたったというのが戦後世界経済史の常識である。そうした経済史的流れとの対応で「68年革命」を文学的象徴とするか「72年転換」を文学的象徴とするかは誤差のうちであろう。もっとも日本は後進的だったぶんだけ「72年転換」のほうが広範な実感に近づくのかもしれない。

 しかし、アメリカのヘゲモニーが弱体化するとともに、アメリカのヘゲモニーにささえられていたソ連も崩壊していったとするようなウォーラーステインの世界理解はいささか牽強付会というしかない。そもそも、「68年革命」は19世紀以降にかぎっても、世界システムの中心部であるヨーロッパにおける1848年革命、1871年のパリ・コミューン、191723年のロシア革命以降の一連のヨーロッパ革命運動、192030年代のファシズム革命、1956年のハンガリー独立戦争、1968年のプラハの春、1980年のポーランド連帯の運動、198991年のロシア・東欧人民のレーニン=スターリン収容所体制からの解放革命という文脈の中に位置づけて理解されるべきものでしかない。

 また、周辺部、第三世界の文脈でいえば、やはり19世紀以降にかぎれば、太平天国の乱、セポイの反乱、尊皇攘夷運動、イタリア・リソジルメント、ドイツ国家主義から、20世紀にはいると日露戦争での日本の戦勝、ロシア1905年革命、トルコの共和国革命、アラブの民族独立、第二次大戦後の「民族自決」時代の到来、イスラエル建国とパレスチナ解放闘争の矛盾の泥沼化、中国の「文化大革命」、ベトナム戦争とベトナム反戦運動、カンボジア・ポルポト派による大量虐殺、中越戦争、北朝鮮の世襲制全体主義政権の「犯罪体制」化、中東のイスラム原理主義による大量無差別テロの頻発化、等々の流れのなかでとらえられるほかはないものである。

 「68年革命」の特筆大書は、たまたま1968年を多感な時期に体験した世代による過剰な意味づけのきらいがなくはない。悪くすると、ああ、まだこの世代には読みかじりのキャッチフレーズで看板をその都度ごと書き換えながら「挫折の世代」云々以来の自閉性を脱却できていない者もいるのだな、と思われかねない。およそ世代の差から、感覚的にピンとくるとかこないとかいうのは「革命」という政治的、経済的、文化的という人間・社会の総体にかかわる歴史的な特異点をめぐる言説としては無意味というほかはない。

 「68年革命」といっても、その内実を世界史的文脈においてどうとらえるかが重要である。また、特殊日本的な歴史的文脈において、「68年革命」が挫折してしまったことの意味をどのように反省し総括するかということも重要なことである。

 まず、世界史的文脈において「68年革命」をとらえることは、何を意味しているか。いうまでもなくそれは、国家権力に対してだけではなく、それまではそうしたものに対抗するものと考えられてきた共産党・第四インター(=ロシア・マルクス主義)型の垂直的な組織に対しても、一斉に異議申し立てが起きたことに大きな歴史的画期があったと考えることを意味する。世界的には西側資本主義に対してだけでなくソ連型スターリン=レーニン主義体制に対しても拒絶の意志が示された。

 そこには輝かしき西欧学芸の精華たるマルクスの学説を理想として仰いだはずのボルシェビキ革命が、人類史上最悪の全体主義的な収容所体制と、労働人口の一割をゆうにこえる千数百万人の囚人奴隷によるインフラ整備という人類史上桁外れに巨大な規模の奴隷制ウクラードをつくりだしてしまったという悪夢としかいいようがない逆説的な歴史的経験が基盤にあったはずである。

 他面でアメリカ発の科学技術文明が社会生活の豊かさと便利さをもたらし、またその後の展開からみればいまだ萌芽的なものであっても、情報・通信手段の発達が垂直的な組織管理によらずとも、ネットワーク的な組織によって十分に運営できるになってくるという歴史的基盤の変化がおこりつつあった。そして、そうした歴史的基盤の変化の上に立って、新しいさまざまな社会的矛盾も発生してくるようになったのであった。そうした背景のなかで、アメリカの公民権運動にはじまる全世界的な「未完の近代」への異議申し立ては、自覚的、無自覚的なマイノリティ排除に異議を申し立てていく動きとして、フェミニズム、ポスト・コロニアリズム等々の歴史的基盤となっていった。

 ところが、公民権運動のようなうねりはアメリカでは「近代化」の徹底という方向であらわれたのだが、フランスでは逆に「近代」への懐疑を語る「ポスト・モダン」論議としてあらわれた。そのような「ポスト・モダン」論議は、全否定すべきではないとしても、毛沢東・ゲバラ主義やインド思想・ニューサイエンスなどともに、当時の怒れる若者たちの意識や言説の方向感覚を攪乱する要素のほうが大きかったと、結果論的にはみなさざるをえない。

 「現代思想」の幻影を振りまいてきたフランスでは、「近代」が18世紀フランス啓蒙思想のイメージに限定されすぎていたために、そこにみられた楽観的な理想主義と社会の合理的設計・管理などの思想が、かえって全体主義や人種差別、マイノリティに対する排除の論理を生みだしてきたというように転倒して現れたのであった。このような倒錯した自閉的な議論がそのままフランスで支配的言説としてまかりとおってきたのは、パリの特権的な大学の一握りの超エリート層に言説が独占されているという、まさにフランス的「近代」そのものの象徴であったにちがいないと思われるのである。

 

 これに対して日本史的文脈において「68年革命」を語ることは、その69年における蹉跌を語ることである。

 日本においては、「68年革命」の先駆けとなるような動きは、すでに、安保全学連=ブントの急進的な行動的感性を、61年におけるsect6(社学同全国事務局派)がマルクス・レーニン主義の全面的否定に立って抽出しようとした試みにおいて存在していた。68年に盛り上がりをみせた全共闘運動は、あきらかにその系譜をひくものであった。しかしながら、当時の日本社会においては、大衆的な全共闘運動が高揚後必然的におとずれる退潮にたいして、持続的な言説、思想、運動の回路をつくりだすことに成功することは結果としてできなかった。

 どこの国であっても、当時はまだマルクス・レーニン主義党派が知識人・学生のあいだにつよい影響力をもっていた最終局面にあり、たとえばアメリカですら大衆的な公民権運動やベトナム反戦運動や新しい社会運動が退潮したときには、ある程度、左翼政治党派が前面に出てきて過激化したことにはかわりがなかったようである。ただ、日本においては、先進諸国のなかでは左翼政治党派から自立して大衆運動が生き延びてゆく思想的基盤がいまだ相対的に非常に弱かった。そのために、それ自体まったく無思想的な−−そのせいか無自覚的にロシア・マルクス主義のデマゴギー的な帝国主義論・戦争論をひきずった−−市民運動という形態か、左翼党派のフラク的な運動か、という両極分解となって自閉化していってしまったのであった。

 もちろん、そのようになるにはそれなりの歴史的な基盤というものがあった。半後進国であった日本ではマルクス主義の思想的影響力が段違いに強かったのである。

 日本では1920年代にロシア革命の強い思想的衝撃と、コミンテルンの直接的工作のもとにコミンテルン日本支部=日本共産党が形成された。そして、それが知識人・学生にあいだに神格化されたことの意味が60年安保までの歳月においてきわめて大きかったということはいまや一つの歴史的事実である。日本社会では天孫族が稲作文化をもたらしたり、大和朝廷が律令国家体制と仏教文化を輸入したり、明治政府が西洋文明を移植したりと、天上から垂直的に降ってきたものにしか権威の源泉を認めえない社会状態が平成期までつづいてきている。したがって、モスクワのコミンテルンという絶対的権威があってはじめて日本の知識人・学生のあいだにマルクス・レーニン主義という新知識が、伝統的な天皇の権威に拮抗しうるものとして神格化されえたのであった。

 敗戦後の混乱のなかで全学連が形成され、武井昭夫委員長の「層としての学生」−「学生先駆性」理論に戦略的裏付けを与えられて大きな高揚をみせたが、それも共産党直系のものだったのである*3。敗戦直後の日本共産党の運動の戦闘的な基盤は全学連と朝鮮総連(の前身)しかなかったといわれる時期にあっては、「層としての学生運動」論は共産主義革命の政治的戦略論としてリアリズムに則ったものであった。

 ところが、50年前後に中華人民共和国樹立、朝鮮戦争勃発という緊迫した局面の展開のなかで日本共産党が所感派と国際派に分裂すると、紆余曲折の末、主流=所感派は毛沢東主義にもとづいて武装闘争路線を採用した。朝鮮戦争に備えるためにスターリン、毛沢東が直接、公然と日共指導部に方針転換を迫ったためである。むろん、これは当時の日本の政治・経済・社会・文化の現実的な分析をいっさい無視したまったくリアリティのない国際的戦略の外からの押し付けであった。そのため日本共産党は一時期、70年代以降の新左翼党派のように社会の表面からまったく姿を没し去ってしまった。そこで、のちの新左翼党派に比べるといちはやく55年の六全協でそのことが自己批判された。新左翼党派にはできなかったことが日共にできたのは、どうやらモスクワから天降り的な直接指導があったからのようである。

 六全協後、それまで日共内で迫害されていた国際派・武井全学連系の学生活動家が中心となって全学連再建に乗り出し、砂川闘争から安保闘争にいたる一連の大衆運動を主導していった。ところが、その過程で日本共産党の旧国際派・宮本顕治氏を中心とする指導部は構造改革派、ソ連派、中国派、全学連派などの諸傾向をまとめきれずに官僚主義的な統制を強化していき、その結果、全学連指導部学生が除名処分をうけ、彼らにより58年に共産主義者同盟(=ブント)が結成されることとなった。

 こうして全学連指導部が孤立しながらも、敗戦後の日本社会の現実的な基盤にある程度立脚して「層としての学生運動」論にもとづいた大衆運動を展開したことが、60年安保闘争にいたる高揚を実現したのであった。よく誤解されるように、六全協で日共が武闘路線を放棄したのに反対した学生部分がブントを形成していったというのは、69年までの15年間のプロセスを抜き去ったまったく誤ったとらえ方であろう。

 ところが、安保闘争の未曾有の高揚のなかでの敗北ののちブントがあっけなく崩壊してしまうと、第四インター=トロツキズムを戦後主体性論哲学にもとづいて観念論的に純化した日本独特の「革命的共産主義」なるものが出てきて、組織的に寄る辺を失っていたブント指導部の一半が横滑りしていった。コミンテルン日本支部から分岐したブントと、準備段階にあった第四インター日本支部から分岐した「革命的共産主義」とは、よい意味でも悪い意味でも日本文化の産物であった。その思想的・感性的スケールにおいては国際的な本家の規模にそのまま見合っていたと思われるが。

 日本文化に独特の悪い面−−極微のいい面もないことはないだろうが−−を凝縮したような「革命的共産主義」なるものは50年代初頭の日共主流=所感派の毛沢東的な武装闘争路線とは正反対の極にあった。それはむしろ戦前の福本イズムまでの退行といってよいものだったが、日本社会の現実的な基盤の洞察にもとづかないものであることにおいては遜色なかった−−それが天降り文化としての日本文化の独特さというものだ−−。そのために、それまでは大学のクラス−自治会の全国的な連合体であった全学連の書記局学生官僚の主導権が「革命的共産主義」に移るやいなや、60年安保闘争で高揚した大衆運動の波は手品のようにみごとに鎮静化してしまった。その間、秋頃にブントの革通派やプロ通派は観念的にのみ50年代共産党の武装闘争路線に回帰したが幸いにして、冬が来る前に、なんら実践につなげられることなく雲散霧消したのだった。

 1950年代の武井全学連=「層としての学生運動」論からは、中村光男氏、廣松渉氏らの反戦学同−社学同への流れや、島成郎氏、森田実氏、香山健一氏らの再建全学連−安保ブントへとつらなる流れとが出てきた。島氏と中村氏はブント崩壊後の61年、柄谷行人氏も多少関わりのあった社学同再建運動の後見に立ったが*4、その過程で登場した社学同全国事務局派(sect6)そのものはこの時点でレーニン主義的前衛指導部→学生同盟→全国学生運動という立て方をする武井型学生運動論−−安保ブントを含む−−とは明確に訣別し、学生運動としての学生運動という吉本隆明的な自立主義の立場にたっていた*5

 その吉本氏もわずか五年前の1956年には武井昭夫氏と『文学者の戦争責任』という共著を出したことがあったし、またその同じ年には故・廣松渉[門松暁鐘]が中村光男、伴野文男氏とともに『日本の学生運動』という共著(その大部分が廣松の執筆部分である)において、武井氏の「層としての学生運動」論を理論化する作業を行っていたのであった。56年当時は吉本隆明、廣松渉、中村光男、それに島成郎、森田実、香山健一各氏といった面々が「輝ける全学連委員長」武井昭夫氏を中心とする磁場に位置していたことがわかる。この磁場は安保ブント、sect6をへて段階的に分散していったのであった。やや年代の下がる唐牛健太郎、青木昌彦、西部邁、福地茂樹、三上治、古賀暹、柄谷行人、栗本慎一郎らの各氏も分散過程にあるこの磁場の周辺にいたといえる。

 62年春頃にsect6を批判して形成された社学同書記局派は、武井−廣松的な意味での「層としての学生運動」論をとっていたものと思われる。それはあくまでもレーニン的前衛党(パルタイであれブントであれ)が指導する学生同盟(反戦学同−社学同)がコアをなして指導する自治会−全学連の学生運動の隊列が階級闘争を先導する、という発想のものであったろう。62年後半にはこの線で一時的に第三次社学同が味岡修(のちの筆名=三上治)氏を委員長として再建されたものの短命に終わった。ブントの革通派残党は岩田弘氏の危機論を『経済評論』(626月号)誌上に発見し、それにとびつくことでマル戦派を形成していった。世界資本主義論を唱える岩田氏は宇野弘蔵門下の鬼っ子、鈴木鴻一郎編『経済学原理論』の事実上の編著者として名を馳せていたが、その十年前には名古屋大学で主流=所感派の武闘路線に属していたともいわれ、みずから戦前派左翼を称するほどの古典的・客観主義的な危機−蜂起革命論者であった。

 マル戦派に対抗して形成されたML派は、64年頃、渚雪彦(佐竹茂)氏によるレーニン帝国主義論をそのまま焼き直して、日本帝国主義とアメリカ帝国主義が資本輸出のために韓国市場をめぐって戦争を開始する、といういかにも学生らしい初々しさの急進的な議論で出発したが、やがて労働者のさらぎ徳二氏が理論的に影響力を強めていった。もともと御殿医の家系に生まれ育ったというさらぎ氏は、敗戦直後に台湾から引き揚げてきた少年時から出奔して九州で所感派系の激烈な武装闘争を展開し、その後上京して労働者として活動していたという筋金入りの戦前派感覚の武闘派であったようである*6

 こうして、岩田氏主導のマル戦派、さらぎ氏の影響力が強まりつつあったML派、ともに所感派系の武装闘争路線を潜在させながら再建されていったようなのであるが、これらに対してsect6系と社学同書記局派系の流れをひくグループとして独立派があった。このうち三上治氏らの中央大学社学同は吉本隆明氏、古賀暹氏(本人は東大)、篠田邦雄氏らの明治大学社学同は廣松渉氏の影響が強かった。その意味では、独立派は国際派学生運動論の人脈的系譜に連なっていた。関西派も政治過程論をいちはやくとっており、のちからみると意外だが初期には独立派と同一系統の発想に立っていた。

 独立派、ML派の一部、関西派が統一派を形成し、統一派とマル戦派が合同することで再建ブントが形成されたが、職業的な経済学者である岩田氏にたいして学生、労働者、哲学者、文学者では太刀打ちできず主導理論は岩田危機論となった*7。当時、廣松は『現代資本主義への一視角』で、また吉本氏は「戦後思想の荒廃」でそれぞれ岩田危機論の批判を試みていたがそれは影響力をもてなかったのである。また、再建後ほどなく党内闘争で初代議長・松本礼二氏や明大独立派が失脚し、さらにマル戦派・岩田理論と訣別したあとはさらぎ氏と、関西派系にもかかわらず政治過程論とは無縁なレーニン、毛沢東、ゲバラ的な軍事路線に猪突していった塩見孝也氏とが理論的な主導権を争うかたちになった。

 幸か不幸か、再建ブント内でこのような主導権争いを演じていたこの時期が、ちょうど68年の大衆的な全共闘運動の高揚期にあたっていたのであった。ブント中央の武闘派的傾向の強い路線闘争の「神々の争い」にもかかわらず、再建ブントの野合的性格がかえって独立派的な発想に立つ学園闘争を活発化していったのだった。中大、明大、早大、慶大の学費闘争などから全共闘型の学生大衆運動スタイルが生み出され、その闘争スタイルが東大、日大へと広がっていったという。全共闘運動とベトナム反戦闘争の高揚は大衆実力闘争の高まりではあったが、ブントをはじめ新左翼諸党派の指導部はそれを第三世界における毛沢東、ゲバラの武装闘争と同一視して50年代日共の武装闘争路線へと感覚が回帰しつつあった可能性がある*8

 そうした素地のあったところに翌69年、必然的に大衆的な全共闘運動が退潮期にはいるや、塩見氏が赤軍派を結成して暴走を開始し再建ブントは左派(赤軍派)、中央左派(蜂起戦争派)、中央右派(レーニン的党組織建設派)、右派(旧独立派系)へと四分解してしまった。つまり、ブント系諸派は旧独立派系以外は、毛沢東・ゲバラ的な軍事路線かレーニン的な党組織建設論に回帰してしまったのであった。69年にもなった歴史的時点においてタイムスリップでもしたかのような軍事路線やレーニン的党組織建設路線の唐突な登場は、その年1月の東大安田講堂攻防戦以降の学生大衆運動の基盤喪失にたいする党派の側における直情的な反応だったといえるのかもしれない。しかし、実際にはすでに60年代になるとsect6から全共闘運動まで、学生大衆はレーニン主義党派の指導とは別のところでの運動の展開を求めるものに変容していたのである。

 これらに対して、学生大衆運動の動向を比較的よくみていたと思われる−−6870年の一時期は叛旗・情況派といわれた−−独立派系グループも、数年後には松本礼二氏、長崎浩氏らの「遠方から」系、廣松渉氏に近かった游撃派、吉本主義をとる三上治氏の「乾坤」系、その他旧叛旗派系に分解していったという(前二者については十分な資料をみていないが)。70年代になると高度成長による社会の成熟、学生の意識の変化、さらには学園紛争の激化の結果もたらされた大学管理の強化など、もはや全共闘型の学生大衆運動の基盤すら失われていったのである。したがって、この潮流の公約数であった1950年代初頭以来の武井「層としての学生運動」論にたいして全共闘運動の退潮以降、日本の戦後社会の構成的変容の結果としてもはや有効性をもたなくなったという認識は多かれ少なかれ共有されていったかに思われる。

 しかし、この潮流もいわば散り散りに分散していったことにうかがえるように、当時の日本においては自立的な社会運動を展開し定着させていくだけの歴史的条件−−文化的な言説の回路や社会的な関係性やレーニン主義を相対化する思想・知識の蓄積−−が十分に存在していなかったのだと考えざるをえない。

 この点に関しては、当時いわば少年士官候補生として闘争現場の最前線に立っていた府川充男氏の証言が鮮烈である。「当時の学生活動家の前には今日からすると信じられない程貧弱な量の文献があるのみであった」として、それでも数ページにわたって膨大な文献を紹介しているが、「今日なら図書館(とインターネット)を旨く利用すれば優に往時の数百倍以上の資料空間を簡短に参看出来る」というのは、やはり80年代以降の学生世代にはあらためていわれてはじめて気が付くところであろう。たとえば、わたしらの世代にとっては図書館や古本屋の書棚に当たり前のように陳列されていた表紙の古ぼけた中央公論社の『世界の名著』『日本の名著』『世界の歴史』『日本の歴史』シリーズにしてからが、まさに府川氏の疾風怒濤時代に刊行がはじまったにすぎないのだ。物質的なインフラ整備の公共事業だけではなく、その気になれば容易にアクセス可能な知識・情報のインフラ整備の度合いが、高度成長期までとそれ以後とでは想像以上に違っていたということであろう。

 府川氏自身、激しい運動生活のいっぽうで、アタマの上に無数の疑問符を点滅させながら眼前の理論的風景がつねに猛烈な勢いでめまぐるしく転変しつづけたといっている様は、容易には後世の他者にはフォローしがたいものである。マル戦派分解後の猛烈な試行錯誤の記録からあくまでもそのごくごく一端のみを拾えば、69年秋から吉本隆明、谷川雁、『遠くまで行くんだ』『叛旗』等を集中的に検討して「自立派」に傾斜、706月、第二次ブント最後の政治集会で、「叛旗・情況派が全員叩き出される迄咥[クワエ]え煙草で後ろの壁に倚掛っていた。(中略)眼前のゲヴァルトを見遣りながら此からは更に果てしの無い分裂と細分化が進むのだろうなとぼんやりと考えていた。」(p.20172年、連合赤軍事件、内ゲバ激化で街頭行動から「ア、野次馬が物凄く減っている」(同前)。やがて「叛旗派をやめて消耗していた」高橋順一氏らとのちに「廣松渉研究会」という名称となる読書会をやりデカルト、ハイデッガーから第三世界論までを読むうちに、いつしか70年代が過ぎ去っていったという*9

 

 「68年革命」というなら、それは日本においては1958年から61年の頃にはじまっていた。そして、それは早くも69年に流産してしまったというべきだ。いうまでもなく70年代前半を覆った連合赤軍事件、爆弾闘争、内ゲバという一連の陰惨な出来事は、後続する世代にとって「学生運動」をしてその言葉を口にするだけでも忌まわしいものとして記憶させるに十二分すぎるものとなった。「学生運動」はたかだか若々しい正義感をたぎらせる類のものとしてではなく、決して触れてはならない呪われた葬送の隊列と化してしまったのだ。そのためほぼ四半世紀にわたって日本においては、急速に豊かになりつつあった社会といえどもそうした社会なりに必要とされる新しい大衆的な学生運動、そして社会人となったのちの自立的運動のあり方というものが成熟してゆく社会的基盤そのものが壊滅してしまったのであった。そこではロシア・マルクス主義のコミンテルン系か第四インター系のソフト化、無自覚化された「市民運動」でなければ、人間社会のわずらわしい思想・観念そのものから逃避したような環境保護運動しかほとんど生息の余地がなかった。

 おそらく、69年以降の凄惨な「学生運動」の歴史そのものが若い世代にすっかり忘却されるようになった90年代も後半以降になって、ようやく「68年革命」という世界潮流に連動したものとして日本の68年を語る、という歴史捏造的な言説も可能となってきたのである。むろん、考古学や歴史学の捏造などはもってのほかだが、しかし、日本社会の若い世代にもはや忌まわしい記憶が希薄ないし皆無になり、ふたたびダイナミックな大衆運動が可能となりつつあるとしたら、それはまことに慶賀に堪えぬことである。そろそろ世代間をつないで、これが私達の生きる道といえるような方向性を見いだしていきたいものである。(03128日)

 

 []

*1 第二次ブントの三ブロック階級闘争論のウォーラーステインの世界システム論に対する先駆性については拙稿「マルクス・宇野経済学と世界システム論」、『情況』20024月号、pp.63-64、参照。

*2以上、宮地健一氏のホームページ「共産党問題、社会主義問題を考える」 http://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/kenichi.htmの公開資料を参照。このホームページにはソ連体制による犠牲者数にかんする多様な推計、研究が詳細に整理、紹介されているが、本稿ではそのうち最も控えめなニコラ・ヴェルト「ソ連における弾圧体制の犠牲者」(福田冷三訳、『労働運動研究No.376』2001年2月号)による数字を使わせていただいた。

*3 以下、多様な文献資料によっているが基本的な事実経過についてはとくに参照文献はあげない。学生運動や新左翼党派の離合集散にかんする基本的な事実関係はなんといっても蔵田計成『安保全学連』(三一書房、1969年)の詳細な記録によるところが大きい。むろん出来事の解釈、意味づけてはその限りではない。

*4 中村光男「総括は、各自、自分でやれ!」、島成郎記念文集刊行会・編『島成郎と六○年安保の時代1 ブント書記長島成郎を読む』(情況出版、2002年)、p.108、福地茂樹「SECT SIXの頃」、『島成郎と六○年安保の時代2 六○年安保とブント(共産主義者同盟)を読む』(情況出版、2002年)、pp.156-159、参照。

*5 蔵田前掲、福地前掲、参照。

*6 さらぎ徳二「革命を生きる」第一回〜第四回、第二期『情況』19977月号、199710月号、19983月号、19997月号、参照。

*7 さらぎ前掲、第三回、19983月号、p.161

*8 三上治『1960年代論U』、批評社、2000年、pp.95-103、参照。

*9 ちなみにわたしが府川充男氏を最初にみたのは、たぶん878年頃の高田馬場における三上治氏の講演会のときと記憶している。そのあとの飲み会で隣り合わせ、60年代当時、国際収支表も使った分析をやれたのはマル戦派だけだったといっておられたのが印象に残っている。同じ頃か、梅ヶ丘の宮武謹一氏のお宅でやはり三上氏らとやっていた「情勢分析研究会」の席に府川氏が顔を出され、多国籍企業の権力について発言されていたような印象がある。府川論文の184頁に出てくる90年頃、府川氏に『SECT 6』の複写をみせてほしいと訪ねていった「新田滋という青年」は、それまでに二、三回は府川氏の長髪姿を見知っていたわけである。長髪がふたたび珍しいものでなくなり始めたのはもっと後のことで、当時府川氏を見忘れることはありえなかった。なお、府川氏の記憶ではわたしは中大の経済学の大学院生となっているが、91年当時はすでに中大法科をすり抜けて東大の経済学の大学院にもぐり込んで4年はたっていたと思う。197頁に微かに触れられている府川氏の昔の後輩分がわたしには宇野経の先輩筋にあたり、すでに大学に教職を得ているという話しをした覚えがある。中大では宇野経済学が学部側にも学生側にもまったく存在していなかったので、あえて記しておく次第である。

 

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